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路地と芥子


異なるもの同士が生きられるあわいはどこにあるのだろう

これまで、そしてこれからも、生きていく上で誰もが最も切に直面すること


語られることのない声が、掌ほどの小さな想像が、隣り合わせ生きられる場が、何よりもひつよう

語られることのない声が、掌ほどの小さな想像が、隣り合わせ生きられる場を
身体信仰生立ち何もかもが異なる僕らがそれでも共にただ居ることのできる過程、
共生に向かう過程に何よりも必要な小さなプラットフォームをつくりたいと思った。

​これは、生きられるあわいをつくるための試みです。


誰もが抱える思いはその人の数だけある。
ただ僕らは言葉にすることがヘタクソだから、全てが語られることは殆ど無い。
子供の頃居場所を失った時、一人絵を描いていた私の手を引いて、ある場所をつくってくれた人がいた。
他者とともにつくる。その過程で自他の声が引き出され、紡がれていく。
異なるもの同士が生きられるあわいの、ひとつのかたちだった。

子供だった当時と今とで、世界の風景は恐ろしい程変わったが、
私たちの周りに隔てられた音のない無数の声の存在は、当時から触れられる距離に無数にあった。
寧ろ今はそれが溢れて行き場もなく世界全体に漂っているようで、
当時幾つかの声を見て見ぬ振りをした自分の振舞いを、酷く酷く悔いた。

言葉にならない微かな声を掬い、幾つもの呼吸を通わせる、
手法形態つまりことばは規定せず、各々自身の呼吸の通うことばに託す、任せる。
他者がいることが前提。異なる者同士が居ることが前提。
何れそうして信じる人たちと共につくれたらいいと心から思う。
これはただ自分が生きられるための試みでもある。

路地は目的地へ向かう時に通る間であり、誰も裁かない。
そこには混沌とした、けれど血の通った、異なるもの同士の共に居る愛すべき風景がある。
弱く、自然の掟に淘汰されても、そこは確かに生きた過程となる。

その風景は、一瞬は、誰かの生をどこまでも照らすこともある。
雛芥子は、道端のいたるところに自生している。どこにでも存在する。
とるに足らない一つ一つを眼差して、想像することを忘れたくない。
川辺の芥子は、ひときわ赤い。
生きられる場所と、風景をかたちづくるひとつひとつと、
どちらが先でも後でもない、その両方を眼差し想像し、行き来する風のように在れたらいい。

 *

​ここに掲載するのは、無心に手を足を動かして記録された、作品未満のイメージの数々です。

完全ではない、ともすれば荒々しく、ともすればか弱く、仕事にはまずならないような未熟なそれらは、

しかし私にとってとても大切な生きられた日々の数々で、

​まずはその微かな声を聞くことから始めようと思った。

語られることの無いはずのそんな道程の一つ一つが、次の他者へとつながることを願いながら。


2022年8月19日 夏の暮れより

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